ふるさとの野道を

　母の実家は家から2キロほどはなれている。国道288号線を車で行けばものの5分だが、母はしばしば小さな私を連れて、野道づたいに、歩いて実家を訪れた。
　6日周期の勤務態勢で夜勤や宿直をこなし、休日が日曜日と重なることが3カ月に2回しかなかった母と私の、貴重な時間だった。
　私の実家は三春旧町内の北の住宅街のはずれにある。そこから50メートルほど先の、家と家との間の狭い道をはいると、そこはもう野道。
　畑の間を通り、薄暗く湿っぽい林を抜けて、見晴らしのいい丘の尾根をわたると、そこからアカマツの混じる林にはいり、次第に緑が濃くなる中をそのまま沢に下ってゆく。急な斜面に「博打石」と呼ばれる巨大な石碑のような天然石がはりついている。「ここで天狗が博打を打った」のだという。阿武隈山地は石灰岩でできているが、このあたりで露岩はめずらしい。博打石が見下ろす山田のわきの、ちいさな流れのなかの小石をひっくりかえしてサワガニを探したり、畔で弁当を広げたりして、さらに野道を行く。
　途中、伯母が嫁いだ小さな集落を通って再び林にさしかかるあたりには厩（うまや）があり、農耕馬が一頭草を食んでいた。その、栗毛の鼻先をなでたお返しにベロリとなめられてびっくりしたこともある。瞳が大きく、息が暖かかった。四季折々の田や畑の風景には、ときに鯉のぼりや新盆（あらぼん）の灯篭が彩りを添えた。
　最後の林は一番湿度が高かった。日当たりが良いとは言いがたいが、それでも山襞の奥まで田が開いてあった。野道が寄り添う土手には、黒い土に埋もれるようにしてアケボノスミレが咲いていた。
　ぬかるむほどの道が次第に乾き、最後の林が切れると、目の前の斜面は牧草地だった。禾本科（かほんか）とアカツメグサが密生する間に寝ころんではかくれんぼに興じた。そして、農道を下るとアシに囲まれた潅漑用水池があり、そこの端まで行くと高台に建つ母の実家が見えてくる。茅葺きにトタンをかぶせた、田舎ではごく普通の古い家だ。
　葦笛を吹きながら祖父母の家の坂道を登った。片手は、たいがい摘んだ草花でふさがっていた。さっさと歩けば30分たらずの道のりを、2時間以上道草を食いながらたどり、帰りは、バスか父の車の迎えを待った。
　とりたてて珍しい植物がはえているわけではない。だが、短い距離なりに、地形の変化につれて植生もかわる。母は草花の名前とその遊び方を教えてくれ、ときにはワラビやゼンマイをとり、キイチゴをつまみ、イナゴをつかまえた。夏の間はヘビ嫌いの母が敬遠したが、小学校を卒業する頃までなんども通った。家の庭のレンゲツツジやシャガやシュンランは、そのころ母と私が移植したものだ。私が植えたスミレは消えてしまったが、マルバスミレはいまでもスズランのわきにはえている。
　久しぶりに母を誘って出かけたのは、野道行がとだえてから10年ぐらいたった大学生のころだった。
「このへんのゼンマイは細くて」とか「スミレは三春じゃめずらしいよね」と私がしゃべる。いつのまにか母よりも草花の名前をたくさん覚えていた。囲碁の譜をそらんじるように、どこになにが生えているかを思い出せる。そして言ったとおりのところにはえている気味のよさ。
　「よく覚えてるわねえ」。母があきれる。
　フデリンドウがはえていたはずの林を道端に気をとられながら歩いていると、ふとあたりが明るくなった。顔をあげると、沢へ下るはずの道が消え、眼下には白っぽく乾いた扁平な更地が拡がっていた。
　手繰っていた記憶の糸が突然切れた。
　「工業団地ができる」　母が言った。裸の斜面には発芽2〜3年目の若いマツが生えている。足の悪い母には下れないので、そこから引き返した。

　それからまた10年がたった。
　サワガニがいた流れは暗渠になり、博打石は更地の隅で庭石みたいに頭だけをのぞかせている。野道の丘には人家も建っている。
　工業団地はいまも空き地がめだつ。町が誘致した工場に勤めるはずだった伯父は東京に単身赴任し、休暇に帰ってきては残った田んぼの手入れをしている。まもなく定年を迎える。
　潅漑用水池もいつのまにか護岸工事がほどこされて、周囲を鉄の柵で囲ってある。まわりの田んぼは休耕田になって、そのあと家が建った。山襞の奥から湧水をあつめて下る流れはU字溝になっている。
　ヤゴはどこで羽化を待つのだろう。
　母が子供の頃には、この池で顔も洗ったし洗濯もしたらしい。私が子供の頃には濁ってはいたが小魚やエビが豊富で、マチ育ちの私にはジャングルのように魅力的な場所だった。
　野道行や池遊びは、いつか自分の子供に伝えたいと思っていたことだったけれど、実物なしの昔語りをするつもりはない。用水池で顔を洗う母を想像できないように、子供はそそり立つ博打石を想像できない。薄暗い森に咲くエンレイソウの白さやウバユリの青白さを見せるためには、さらに遠くへ足を伸ばし、見知らぬ森をさ迷わなければならない。

　伝えたい自然が、消えてゆく。伝えたい思いが、取り残されている。